ひきこもれ [読書日記]
かの思想界の巨人・吉本隆明が語った、ひきこもり論。「ひとりの時間」を持つことの大切さを主に若者に向けて語っている。糸井重里さんが名著と推薦していたので、久しぶりに吉本の著作を手に取る。
コロナ時代の今こそ、自分を見つめるチャンスという指摘に読めるが、不登校やいじめについての考え方は独特だった。傷ついた親が傷つく子をつくる、子どもの自殺は親の代理死である。三島由紀夫は大人になって親の代理死として自殺したという。
意外だったのは、僕はあらゆる市民運動を信用しないと言っていること。吉本と言えば、安保闘争のイメージがあるし、市民運動とも密接な関わりがあると思い込んでいた。吉本自身がひきこもりであり、長い間ひきこもり続けて何とか物書きとして食っていけるようになったと告白している。若い頃に読んだら、もっと衝撃的だったかもしれないが、それなりの齢でも今を生きる意味を考えさせられる。
コロナ時代の今こそ、自分を見つめるチャンスという指摘に読めるが、不登校やいじめについての考え方は独特だった。傷ついた親が傷つく子をつくる、子どもの自殺は親の代理死である。三島由紀夫は大人になって親の代理死として自殺したという。
意外だったのは、僕はあらゆる市民運動を信用しないと言っていること。吉本と言えば、安保闘争のイメージがあるし、市民運動とも密接な関わりがあると思い込んでいた。吉本自身がひきこもりであり、長い間ひきこもり続けて何とか物書きとして食っていけるようになったと告白している。若い頃に読んだら、もっと衝撃的だったかもしれないが、それなりの齢でも今を生きる意味を考えさせられる。
ひきこもれ <新装版> ひとりの時間をもつということ (SB新書)
- 作者: 吉本隆明
- 出版社/メーカー: SBクリエイティブ
- 発売日: 2020/09/05
- メディア: 新書
シルバーウィーク [雑感]
シルバーウィーク。たいした予定のない9月の4連休を送っている。初日に久々のリモート飲み会をやるも利用者が集中したのか、アプリの調子が悪く、オンライン居酒屋を出たり入ったりで落ち着いて話もできず不完全燃焼に終わった。
ただこの4日間は久々に晴天で心地よい日和が続いた。稲刈り前の田園地帯を歩き、一日は近くの寺社めぐりに足を伸ばした。go to 東京の解禁や催しの入場制限緩和でプチ観光は結構な賑わいだったよう。でも高齢者や基礎疾患を持った人が身近にいると、行動は慎重にならざるを得ない。新型コロナは今ひと段落した状態だが、いずれ第3波がやってくるだろう。警戒を緩めたり強めたりを繰り返しながら、特効薬とワクチンの開発まで時間稼ぎするしかない。それまでは感染リスクを可能な限り回避する生活を地道に続けよう。
涼しくなって読書欲が戻ってきた。でも家に引きこもってばかりはやはり疲れる性分。我が家に戻ってまだ5カ月、もっと地元を探索してみるか。
ただこの4日間は久々に晴天で心地よい日和が続いた。稲刈り前の田園地帯を歩き、一日は近くの寺社めぐりに足を伸ばした。go to 東京の解禁や催しの入場制限緩和でプチ観光は結構な賑わいだったよう。でも高齢者や基礎疾患を持った人が身近にいると、行動は慎重にならざるを得ない。新型コロナは今ひと段落した状態だが、いずれ第3波がやってくるだろう。警戒を緩めたり強めたりを繰り返しながら、特効薬とワクチンの開発まで時間稼ぎするしかない。それまでは感染リスクを可能な限り回避する生活を地道に続けよう。
涼しくなって読書欲が戻ってきた。でも家に引きこもってばかりはやはり疲れる性分。我が家に戻ってまだ5カ月、もっと地元を探索してみるか。
数学する身体 [読書日記]
森田真生の「数学する身体」。数学がつまらなくて文系に進んだ身としては、あまり縁がないジャンルだが、数式が出てこず小林秀雄賞受賞作ということで手にとってみた。アラン・チューリングと岡潔という天才二人の研究と生涯を中心にした話で、数学に対する認識が変わった。知的刺激に満ちた書だ。
学校で習った数学は、古代や現代の数学ではなくて近代の西欧数学。数式と計算をことさら重視するのは17〜19世紀の西欧数学に特有の傾向で、それ自体が普遍的な考え方ではないという。古代ギリシア人は幾何学的論証を重視し数値的計算は持ち込まなかった。現代数学も抽象的な概念や論理を重視する方向に進んだという。計算して何になるんだと思った高校時代に、こんな話を知っていれば理系にもっと興味を持ったかもしれない。
岡潔の話となると、数式は出てこない。むしろ哲学的。「過去なしに出し抜けに存在する人はいない。その人とはその人の過去のことである。その過去のエキス化が情緒である。情緒の総和がその人である」。人は皆「風景」の中を生きている。知識や想像力といった要素が混じって立ち上がる実感が魔術的環世界と認識され、それが「風景」となっているという。虫には虫の、猫には猫の環世界がある。数学にも数学的風景があって、その中を数学者たちがいろんなツールを使いながら探求を続けている。数学を極める、研究を極めるには、人間ができていなければならないというくだりもあり、生き方ということを深く考えさせてもくれる。
学校で習った数学は、古代や現代の数学ではなくて近代の西欧数学。数式と計算をことさら重視するのは17〜19世紀の西欧数学に特有の傾向で、それ自体が普遍的な考え方ではないという。古代ギリシア人は幾何学的論証を重視し数値的計算は持ち込まなかった。現代数学も抽象的な概念や論理を重視する方向に進んだという。計算して何になるんだと思った高校時代に、こんな話を知っていれば理系にもっと興味を持ったかもしれない。
岡潔の話となると、数式は出てこない。むしろ哲学的。「過去なしに出し抜けに存在する人はいない。その人とはその人の過去のことである。その過去のエキス化が情緒である。情緒の総和がその人である」。人は皆「風景」の中を生きている。知識や想像力といった要素が混じって立ち上がる実感が魔術的環世界と認識され、それが「風景」となっているという。虫には虫の、猫には猫の環世界がある。数学にも数学的風景があって、その中を数学者たちがいろんなツールを使いながら探求を続けている。数学を極める、研究を極めるには、人間ができていなければならないというくだりもあり、生き方ということを深く考えさせてもくれる。
当世・商売往来 [読書日記]
劇作家・別役実の著作、しばらく本棚に眠っていたのを引っ張り出した読む。いろんな仕事から見えてくる社会の断面。1980年代、少し前の時代の話だが、その視点は不条理劇の舞台を見ているようで面白かった。
知らない商売=仕事もあった。一つは、こえかい。肥を買う、つまり人糞を作物の肥料として使っていた頃の商売らしいが、街中を「こえかいますよ」と流していた風景なんて時代劇でもあまり見かけない。地見師、当たり屋は知っていたが、つなぎやは初耳。要するにトラブルの調停者。弁護士に頼むと大袈裟になるしお金がかかりそうなので困ったなんて時にどこで聞きつけるのいか、現れるらしい。
考えてみれば、商売というものは、時代、時代で生まれるものなのだ。今のパンデミックのように、想定していなかったことが起きると、そこには新たな商売のタネが生まれる。危機はチャンス、なのかもしれない。
知らない商売=仕事もあった。一つは、こえかい。肥を買う、つまり人糞を作物の肥料として使っていた頃の商売らしいが、街中を「こえかいますよ」と流していた風景なんて時代劇でもあまり見かけない。地見師、当たり屋は知っていたが、つなぎやは初耳。要するにトラブルの調停者。弁護士に頼むと大袈裟になるしお金がかかりそうなので困ったなんて時にどこで聞きつけるのいか、現れるらしい。
考えてみれば、商売というものは、時代、時代で生まれるものなのだ。今のパンデミックのように、想定していなかったことが起きると、そこには新たな商売のタネが生まれる。危機はチャンス、なのかもしれない。
世界史とつなげて学ぶ中国全史 [読書日記]
隣の大国・中国は好き嫌いにかかわらず、ずっとこれからも付き合っていかなければならない国だ。新型コロナでグローバル経済のあり方が根本から問われているが、日本を取り巻く中国、韓国、米国といった近しい国々との関係は我々の生活に直に影響する。こうした基本構造はこれからも変わらないだろう。
付き合うには相手のことをよく知ること。京都府立大の岡本隆司教授の書いたこの1冊はわかりやすく、中学・高校レベルでストップしていた中国史の知識をアップデートするのにお手頃だ。今の習近平の中国は明、清の時代から基本構造は変わっていない。それぞれの地方、省が一定の力を持ち多様な民族が拠点とした歴史がある多元的な国で、かつては南北、現在は東西で経済的、社会的に大きな乖離がある。中央政府の意向が行き渡り国民が「右へならえ」しがちな日本とは全く異なる。歴史的に見ると、単一的均質な社会構造だった日本とは違うのだ。中国という呼び方も清の後、中華思想から名付けたものだという。それまでは英語のchina、シナが普通だった。
さらに明治維新で脱亜入欧の思想から西洋史的な世界観を導入した日本人。西欧の視点で書かれた世界史の立場から中国を見るようになってしまった。欧米と付き合うのはそれで良いが、中国を見るときはアジアの視点、歴史の物差しが必要なのだ。日本は西欧ではない、アジアの国なのだということを忘れてはいけないと思う。IT革命で情報が飛び交うようになり、世界の隅々のことが分かるようになったせいもあるが、近視眼ではなく、長い目、歴史的な視点で世界のものごとを見るようにしたい。
付き合うには相手のことをよく知ること。京都府立大の岡本隆司教授の書いたこの1冊はわかりやすく、中学・高校レベルでストップしていた中国史の知識をアップデートするのにお手頃だ。今の習近平の中国は明、清の時代から基本構造は変わっていない。それぞれの地方、省が一定の力を持ち多様な民族が拠点とした歴史がある多元的な国で、かつては南北、現在は東西で経済的、社会的に大きな乖離がある。中央政府の意向が行き渡り国民が「右へならえ」しがちな日本とは全く異なる。歴史的に見ると、単一的均質な社会構造だった日本とは違うのだ。中国という呼び方も清の後、中華思想から名付けたものだという。それまでは英語のchina、シナが普通だった。
さらに明治維新で脱亜入欧の思想から西洋史的な世界観を導入した日本人。西欧の視点で書かれた世界史の立場から中国を見るようになってしまった。欧米と付き合うのはそれで良いが、中国を見るときはアジアの視点、歴史の物差しが必要なのだ。日本は西欧ではない、アジアの国なのだということを忘れてはいけないと思う。IT革命で情報が飛び交うようになり、世界の隅々のことが分かるようになったせいもあるが、近視眼ではなく、長い目、歴史的な視点で世界のものごとを見るようにしたい。